わたしは寮の部屋の前で立ち尽くしてしまう。スマホを見ると、凪沙ちゃんからの着信が十件近く入っていた。でも、あんなことをされていたわたしが出られるはずなんかない。おじさんに解放されたあと、凪沙ちゃんに電話しようかと思ったけど、すごく機嫌悪くなってたらどうしようって思うとなかなかかけ直せなくて、結局部屋の前まで帰ってきてしまった。
凪沙ちゃん、きっと怒ってるだろうな……。
でも、怒られても仕方ない。今日遅くなるって言えばよかったのに、そんなこともしなかったわたしが悪いし、怒られるようなことをしたのはわたしなんだ……。わたしは覚悟を決めて、部屋のドアを開ける。
「た、ただいまー」
そう言って、靴を脱ごうとすると、部屋の奥からばたばたと音が聞こえてくる。そして、凪沙ちゃんが駆け寄ってきて、その勢いのままわたしをぎゅっと抱きしめた。
「わわっ」
わたしは後ろに倒れそうになって、なんとか持ちこたえる。わけもわからず固まっていると、凪沙ちゃんはしぼり出すように言った。
「柚乃……っ、よかった……」
「へ……?」
凪沙ちゃんの言葉に、わたしは間の抜けた声を出してしまう。凪沙ちゃんはわたしのからだをつかまえるみたいに、抱きしめる腕の力を強くする。わたしは凪沙ちゃんになされるがまま、玄関に立ちすくんだ。
「すっごく心配したんだから! 柚乃のばか!」
「……っ」
わたしは凪沙ちゃんのその言葉を聞いて、さっきまでわたしの考えていたことが見当違いだったってことに気づく。凪沙ちゃんは、わたしをこんなに心配してくれてたんだ……。それなのに、わたしは……。
「ご、ごめんね……」
わたしがそう言うと、凪沙ちゃんは泣き出しそうな声でわたしに言った。
「なんで遅くなるって言ってくれないの? 電話もLINEも返ってこないし……。あたし、柚乃に何かあったらって……」
「ご、ごめん……。心配させてほんとにごめんね……」
わたしは言い訳することもできなくて、凪沙ちゃんに謝りつづけた。わたしが凪沙ちゃんの背中に手を回してさすると、凪沙ちゃんはそれで落ち着いたみたいに、腕をゆるめる。
「……何もなかった?」
「え? う、うん。何にもないよ」
わたしは作り笑いを浮かべながらそう言った。大好きな友だちにほんとじゃないことを言うのは、ちょっと罪悪感を感じてしまう。でも、今日男子にされたことやおじさんにされたことは、凪沙ちゃんには絶対知られちゃいけない……。もしそれを知ったら、凪沙ちゃんはきっとわたしを守ってくれるけど、もう凪沙ちゃんが男子に恥ずかしいことやえっちなことをされるのは耐えられなかった。
「……ほんとに?」
凪沙ちゃんはわたしからからだを離して、そう尋ねてくる。何かあったのを見抜かれてるみたいが気がして、どきどきしてしまう。わたしはほんとに何でもないふうを装って、とっさに思いついた嘘をつく。
「ほ、ほんとに何にもないよ。ちょっと、図書室で宿題してたら寝ちゃってただけ」
「ならいいけど……」
わたしがそう言っても、凪沙ちゃんはまだちょっと気がかりそうな顔でわたしの顔を見つめていた。これ以上追及されたら話してしまいそうで、わたしは無理やり話をそらす。
「そ、それより、凪沙ちゃんは体調だいじょうぶ?」
わたしがそう言うと、凪沙ちゃんはやっと心配げな表情を消して、くすっと笑った。
「あたしは全然へいき。柚乃が帰ってこないせいでおなかへっちゃった」
***
凪沙ちゃんとわたしはなるべくいっしょに夕飯を食べるようにしてる。でも、休日以外はお風呂はだいたいべつべつだった。休日も、更衣室で会ったら恥ずかしいから、わたしは凪沙ちゃんがお風呂に入ったあと少ししてから入るようにしている。今日はわたしが帰ってくるのが遅かったせいで、夕飯とお風呂を済ませたら、すぐ寝る時間になってしまう。
でも……部屋を暗くして一人でベッドに寝転がったら、きっと今日されたことをいっぱい思い出しちゃう……。
わたしは寝る時間になったのに気づかないふりをしていたけど、凪沙ちゃんはいつもどおり寝る支度を始めてしまう。わたしは少しでもそれを遅らせようと、わざと時間をかけて歯磨きしたり、お風呂上がりに塗った化粧水をもう一回塗ったりしたけど、それもすぐに終わってしまった。凪沙ちゃんがベッドの中に入るのを、わたしはそばで立ったまま見ていた。
「……どうしたの?」
「……、」
なんて言えばいいのかわからなくて、わたしは黙ってしまう。「もっと起きててほしい」とか「いっしょに寝よう」とか、そういうことを言いたかったけど、凪沙ちゃんに甘えてるって思われるのはちょっといやだった。凪沙ちゃんは不思議そうな顔をして、自分のベッドに入らないわたしを見ていた。何でもない、って言葉が口から出そうになったとき、凪沙ちゃんはふふっと笑った。そして、わたしの考えてることがわかってるみたいに、ベッドの奥にからだを寄せて、空いた場所を優しくぽんぽん叩いた。
「……っ」
わたしは自分のベッドから枕を取って、凪沙ちゃんと同じかけ布団の中にそっと入る。わたしの淡いピンクの枕を、凪沙ちゃんのブルーの枕の隣に置いて、わたしはその上に頭を載せた。寮のベッドは一人用だから、二人で横になって向き合うと、ほんとにすぐ近くになってしまう。
凪沙ちゃんはそんなことはあんまり気にしてないみたいで、ちょっとおかしそうに笑いながら言った。
「最近毎晩いっしょに寝てる気がしない?」
「……、そ、そんなことないよ。昨日と今日だけだもん」
わたしはそう言った。でも、おとといはべつべつだったけど、その前の日もいっしょに寝たから、ほんとはほとんど毎晩いっしょに寝ていた。凪沙ちゃんはそれに気づいてないのか、それとも気づかないふりをしているのか、「そっか」とだけ言って、部屋の電気をぱちっと消した。
明かりを消しても、窓から月の光が差し込んで部屋はほんのり明るかった。凪沙ちゃんはわたしの腰のあたりに手を回して、わたしを抱きしめるみたいにからだを寄せてくる。凪沙ちゃんの秋に咲く花みたいな澄んだ匂いで、わたしはいっぱいになる。もう鼻の頭どうしが触れてしまいそうな距離に、凪沙ちゃんがいて……そんな距離で見つめ合うのはちょっと恥ずかしくて、わたしは目をそらす。
でも……わたしはなぜか、凪沙ちゃんの唇に視線が吸い寄せられてしまう。今朝もそれに見とれそうになって、ほんとにキスしそうになったんだった。そして、そのあと男子やおじさんにひどいことをされて……おじさんに無理やりキスされたときに、わたしは凪沙ちゃんとすればよかったって後悔した。
おじさんにされたあと、何度も口をゆすいだし、歯磨きもした。でも、あの感触を思い出すと、すごく汚されてしまったような感じがする。最後のキスがあんなのなんて嫌だ……。
また、凪沙ちゃんが「して」って言ってくれたらいいのに。それなら、仕方なくわたしは凪沙ちゃんにしてあげるのに……。
「なに? そんなに唇ばっかり見て」
凪沙ちゃんはいたずらっぽくほほ笑みながら、わたしに言った。わたしのよこしまな考えが見透かされてたんじゃないかって思って、ちょっとどきっとする。
「……おやすみのちゅーする?」
凪沙ちゃんは冗談めかしてわたしに聞いてくる。わたしはそれに答えられなくなってしまう。もし「うん」って言ったら、わたしがしたがってるみたいで恥ずかしいし、でも断ったら凪沙ちゃんとできなくなっちゃう……。
わたしが恥ずかしい気持ちと、したい気持ちの間で迷っていると、凪沙ちゃんはくすくす笑って言った。
「じゃあ目閉じててあげる。ん」
凪沙ちゃんはそう言って目を閉じて、唇をすこしつきだした。きれいな凪沙ちゃんがそんなことをすると、わたしでも胸がきゅんとする。ほんとにしていいのかな……。
でも、凪沙ちゃんがそうしたんだから、きっと……。
わたしはどきどきしながら、凪沙ちゃんの唇に自分の唇を近づける。そして目をつぶって、唇どうしを触れさせた。
「ん……」
凪沙ちゃんの唇は柔らかくてしっとりしていて、ちょっとだけ甘かった。触れた瞬間に、からだの中の何かがほぐれていくような感じがする。今日あった、つらかったことも悲しかったことも、全部忘れてしまいそうになる。キスするのって、こんな気持ちなんだ……。すごく幸せで、いつまでもしていたくなるような……。
でも、あんまりずっとしてたら、凪沙ちゃんに変に思われちゃうかも……。わたしはなごり惜しい気持ちになりながら、唇を離す。わたしが閉じていた目を開けると、凪沙ちゃんはほほ笑みながらわたしを見ていた。
目、閉じててくれるって言ったのに……。わたしのキスしてるときの顔、見られちゃったかな。変じゃなかったらいいけど……。
「ほんとにちゅーした。朝はしてくれなかったのに」
「……っ」
凪沙ちゃんはわたしをからかうように言ってくる。わたしは恥ずかしくなって、寝返りをうって反対側を向いた。
「も、もう寝るから。……おやすみ、凪沙ちゃん」
もうからかわれたくないから、わたしはそう言った。凪沙ちゃんはじゃれるように、そんなわたしを後ろから抱きしめてくる。
「おやすみ、柚乃」
凪沙ちゃんは耳元でそうささやいた。凪沙ちゃんの匂いとあたたかさに包まれて……わたしは幸せな気持ちのまま、眠りに落ちた。