「お姉ちゃん……」
お風呂上がり、ミナハの部屋に、妹の葉月が扉の向こうから顔をのぞかせた。
「えっと……ちょっと、話があるんだけど……」
ミナハは不思議そうな表情を浮かべながら、となりのクッションをぽんぽんと叩いた。葉月は少し緊張した面持ちで彼女の部屋にやってきて、クッションの上に座った。どことなく彼女らしくない表情だった。葉月はいつも無邪気で、人見知りもほとんどしない。何かあったんだ、とミナハにはすぐに分かった。
「……、」
ミナハの部屋に来たあとも、葉月は何かをためらうようになかなか話を切り出さなかった。ミナハは葉月の手に自分の手を重ねて、軽く握りながら、なるべく優しい声音で葉月に言った。
「どうかした?」
ミナハがそうすると、葉月のこわばっていたからだから少し力が抜ける。そして、葉月は言った。
「その……最近、誰かに見られてるような気がして……」
ここ数日間、学校から帰る電車の中や、駅から自宅まで歩いているときに、誰かにつけられてるような気がする。葉月はミナハにそう話した。
「ぼ、ボクなんかがこんなこと言うのって、おかしいよね……。 たぶん、気のせいだし。ごめん、変なこと言って」
「ううん、全然変じゃないよ。そっか……」
ミナハは少し考えた。もし葉月の言うとおり、本当に誰かにつけられているんだとしたら……葉月に何か起こってからじゃ、取り返しがつかない。かといって、親は家を空けがちで、今日も夜遅くになっても帰ってきていなかった。だとすれば、方法は一つだった。
「じゃあ、明日からしばらく、いっしょに登下校しよっか」
「い、いいの?」
葉月が言うと、ミナハは座っている彼女を後ろから抱きしめるように手を回す。
「ふふ、いいに決まってるでしょ。あたしは葉月といっしょにいれてうれしいよ。それとも、もしかして好きな子と登校してるの?」
「ち、ちがうよ! お姉ちゃん、水泳の練習とか忙しそうだし……」
ミナハはそんな葉月にくすくす笑う。
「妹より大切なことなんかあるはずないでしょ。そんなこと気にしないの」
「う、うん……」
葉月のショートカットの毛先を指ですきながら、ミナハは彼女に言った。
「心配しなくても大丈夫。お姉ちゃんが守ってあげるから」
ミナハの言葉に、葉月は照れくさそうに笑う。
「ありがと、お姉ちゃん」
それから一週間、ミナハは葉月に付きそって登下校した。高校の最寄り駅までの電車はいつも満員だった。ミナハは葉月に男の手が触れないか見張りながら、葉月の言う視線の正体を突き止めようとした。
ミナハは葉月と話しながら、時折それとなく後ろに目をやり、誰かつけてきていないかを確認したりした。しかし、ミナハが付き添っているからなのか、それとも葉月が言うとおり気のせいだったのか、それらしい影を見つけることはできなかった。
都合の悪いことに、ミナハはその週末、大学の水泳部の合宿に行くことになっていた。金曜日と月曜日は、葉月といっしょに登下校することができない。それに、親が家を空けがちなせいで、ミナハが合宿に行っている間は葉月が家に一人きりになってしまう……。もし万が一葉月に何かあったら──そう思うと、ミナハには彼女を放っておくことなんてできなかった。
「お姉ちゃん」
木曜日の下校時、葉月はミナハに言った。
「一緒に学校来てくれてありがと。やっぱりボクの気のせいだったみたい」
葉月の表情は、最初にミナハに相談に来たときよりも和らいでいた。それでも、ミナハにとって葉月は何よりも大切な妹で、心配せずにはいられなかった。
「でも……」
食い下がろうとするミナハに、葉月は言った。
「心配させるようなこと言ってごめんね。でも、大丈夫だよ! それに、お姉ちゃん、金曜日から合宿でしょ?」
それでも、ミナハの心配げな表情は消えなかったが──葉月がそう言うなら、とミナハはしぶしぶうなづいた。
***
合宿中も、ミナハは妹のことが頭から離れなかった。合宿のあいまの自由時間を縫って、ミナハは葉月にLINEをしたり、電話をかけたりした。そのたびに、葉月からはいつも通りの返事が返ってきて、ミナハは少しほっとした。
日曜日の夕方、ミナハはやっと葉月のそばに帰れるという思いで、携帯を持って旅館のベランダに出た。
「葉月?」
『あ、お姉ちゃん……』
電話口に出た葉月の声は、前の日の彼女のそれよりも明らかに暗くなっていた。その声音を聞くなり、ミナハには葉月に何かあったんだということが分かった。
「……何かあったの?」
『え? う、ううん。何にもないよ』
葉月の答えは心ここにあらずといった感じで、それは彼女が何か隠し事をしている時のサインだった。
「……ほんと?」
『……、うん、ほんとだよ』
葉月の声を聞くたびに、ミナハの心の中で不安が広がっていく。けれど、何回問いただしても葉月は「何でもない」の一点張りで、かたくなにミナハに教えようとしなかった。
「ならいいけど……。ちょっとでも気になることがあったら、絶対お姉ちゃんに電話してね。夜でもいいから」
『うん、わかってる。ほんとに大丈夫だから。お姉ちゃんは心配性だなあ』
それから他愛のない会話をして、通話を終えた後も、ミナハの心には不安が残り続けていた。もしかしたら、自分の思い過ごしかもしれない。それでも、葉月はミナハに何かを隠していて……もしそれが、あの相談と関係のあることで、合宿中のミナハに気をつかって言わないようにしていたんだとしたら──。そのことを考えるほど、ミナハの不安な気持ちは強くなっていった。
(明日までなんて待てない……。もし葉月に何かあったら、最悪なんだから……!)
幸い合宿のメニューは今日ですべて終わっていて、明日は移動を残しているだけだった。ミナハはほかの部員たちに、用事があるから先に東京に帰る、と伝えて、夜の高速バスを予約した。
新宿行きの高速バスはほとんど満席だった。隣の座席との間隔もそれほど広くなく、これから数時間揺られるのかと思うと憂鬱だった。それでも、大切な妹のためと思えば我慢できた。
ミナハがバスに乗り込むと、一瞬だけ何人かの男たちの目が彼女に向き、離れていった。彼女はいつもと同じように、露出の多いスポーティーな服装をしていた。胸の形がはっきり分かるような、アメリカンスリーブのへそ出しシャツ。そして、長い脚を際立たせるような短いデニムのホットパンツ。彼女のほどよく鍛えられたしみひとつないお腹と白い太ももが、惜しげもなくさらされている。
そんな服装をすることにミナハは慣れていたし、へそ出しやホットパンツをむしろ好んでいた。そして、今のように自分の姿を見てくる男たちを軽蔑していた。
ミナハは男たちを冷ややかな目で見下ろしながら、自分の席に座る。両隣には中年の男たちが座っていた。直前に予約したせいか、最後列のその席しか空いていなかった。ミナハはため息をつきながら、少しでも早く時間が過ぎるようにとスマホを開いた。
バスが出発してから、ミナハは自分のからだに視線を感じはじめた。両隣の男たちが、ミナハの方をじろじろ見ているようだった。男たちの視線は、彼女の胸や、露出したおなか、そして脚を舐めるように移動していく。男たちは隠せていると思っているのかもしれないが、当のミナハには男たちの視線はバレバレだった。
(はぁ……ほんとキモい……)
ミナハは内心でため息をつきながら、居心地悪そうにからだを動かした。しかし、男たちはミナハの方を見るのをやめずに──それどころか、左の男が彼女の太ももに手を這わせ始める。
(男ってなんでこんなにバカなの……?)
見知らぬ男に触られるなんて、身の毛がよだつほど気持ち悪いけど──反応しなければ、男も飽きてすぐにやめるだろう。ミナハは少し我慢することにした。
しかし、しばらくすると、今度は右隣の男まで彼女の太ももに触れてくる。このまま男たちの好きにさせるなんて、ミナハには到底できなかった。ミナハは両側の男たちの手を払い除け、言った。
「触らないで。気持ち悪い」
ミナハが言うと、男たちは下品な笑みを浮かべる。ミナハは先に触ってきた左隣の男をきっと睨んだ。
「相変わらず強気だなあ。ミナハちゃん」
右隣の男がそう言うのが聞こえて、ミナハは驚いて男の顔を見る。その男の顔には見覚えがあった。
「……っ、あんた、あの時の……」
「久しぶりだな。あれから三人も捕まえたそうじゃないか。お手柄だねえ」
男は、今年の春先にミナハが捕まえた痴漢だった。偶然彼女の近くで、女子高生のからだを触っていたのだ。ミナハは男を駅員に引き渡し、女子高生を助けた。
それから、ミナハは痴漢を三人捕まえていた。その中には、ミナハ自身に痴漢をしてきた男も、偶然ミナハの目の前で女の子に痴漢していた男もいた。女の子に痴漢するような卑怯な男は捕まって当然──彼女はそう思っていたし、彼女にとってそんな男たちは怖くもなんともなかった。
「……あんた、また捕まりたいの?」
ミナハは男に軽蔑の視線を送りながら、そう言った。
「それは困るなぁ。ミナハちゃんみたいなエロい女の子に、しばらく痴漢できなくなっちゃうからなあ」
「……ほんとキモい。次の休憩で警察呼ぶから」
ミナハは最後通牒のようにそう言ったが、男は彼女の言葉をまるで意に介さずに不気味な笑みを浮かべていた。
「おっさん、あれ見せてやれよ」
おっさん、と呼ばれたミナハの左隣の男は、ニヤニヤ笑いながらミナハにスマホの画面を向けた。そこには、見覚えのある女の子が、見覚えのある服を着て立っている画像が映っていた。
(葉月……? それに、この服、あたしの……)
ミナハは自分の服を、葉月に貸した日のことを思い出した。葉月がミナハのような露出度の高い服を着るなんてめずらしい、と思ったのだ。デートか何かかと思って、ミナハは服を貸したのだが……あの日、葉月が浮かない顔をして帰ってきたのを覚えていた。
「この子、可愛くてエッチでいいよねえ」
男がそう言いながら次の画像を表示させると、女の子は後ろからショーツに指を入れられ、悔しそうな表情をしている。さらに次の画像は……公衆トイレのような場所で、女の子が裸にされ、恥ずかしそうにうつむいている。そして、女の子が男の膝の上で泣きながら犯されている画像が表示され、最後に、女の子はトイレの床にひざまづいて、男のものを舐めていた。
ミナハは信じられない気持ちで、男のスマホの画像を食い入るように見つめた。しかし、それはどう見ても、自分の服を着たまま痴漢され、裸にされて犯される妹の姿だった。
「かわいそうだよなあ。おっさんに痴漢されて、トイレで犯されるなんて」
そんなこと、葉月は一言も言ってなかったのに……。でも、もしかしたら恥ずかしくて言えなかったのかもしれない。しかし、ミナハには、最近葉月が男の目に敏感になり、不安に思っている理由が分かった。またあんなふうに痴漢されて犯されたりしたら──。
ミナハは噛みつくばかりに男を睨みつける。
「あんたがやったの?」
「さあ。どうだろうねえ」
ミナハは怒りで我を忘れて男に掴みかかりそうになったが、なんとか心を落ち着けた。もしこの狭い車内で乗客同士のトラブルなどということになれば、バスが遅れるのは目に見えていた。警察に引き渡すときに、男のスマホの中に葉月の動画があることを言えば、きっと男に裁きを受けさせることができる──。
「あんた、絶対警察に突き出してやる……!」
「おお、怖いねえ」
男は子供をからかうように、ミナハの威嚇に半笑いで答える。
「でもさあ、少しは考えたほうがいいんじゃないかな? もしそんなことしたら、葉月ちゃんの動画がどうなるかとかねえ」
「………」
「もしネットに流出して、クラスの男子が見ちゃったらどうするだろうなあ。葉月ちゃんのえっちな動画見てシコシコするだけじゃなくて、もしかしたらみんなに広めちゃうかもなあ」
もしそんなことになったら──クラス中の男子が葉月の痴漢や裸の画像を持っているなんてこと、想像したくもなかった。
「この卑怯者……っ」
ミナハは男に侮蔑を込めて言ったが、男には羽虫程度にも効いていない。
「へへ……物分りがいいねえ。それに、お前もちょっとは我慢したほうがいいかもなあ。東京に着くまでの辛抱だからよぉ」
「……っ」
我慢する──さっきみたいな痴漢を、ということだろう。今から東京に着くまで、男たちに好き放題からだを触られても、何もできないなんて……。ミナハは唇を噛んだ。
「ほんと最低……」
ミナハの憎まれ口を、男たちはニヤニヤして受け流した。
