最近、柚乃があんまりよく眠れてないみたいだ。
「おやすみ」って言って部屋の電気を消したあと、ときおり二段ベッドの上から寝返りを打つ音が聞こえてくる。二週間くらい前からずっとそうだった。あたしはチアの練習で疲れちゃってる日が多いから、そんな柚乃に気づかずに眠りに落ちちゃうことが多いけど……。最近の柚乃は、朝だってすごく眠そうだし、授業中もまじめな柚乃にはめずらしくうたた寝していた。
女の子だから、そういうときはあるって思うけど……でもルームメイトとして一緒に暮らしていれば、そういうんじゃないっていうのはなんとなく分かる。
あたしはひとつ、思い当たる理由があった。数日前、柚乃のお姉さんがあたしたちに会いに来てくれたとき、二人きりになったタイミングであたしはそのことを相談してみたのだ。すると、少し考えたあと、柚乃には言わないでね、と言って──中学生の柚乃が、見知らぬ男たちにひどいことをされたのを教えてくれた。
もし柚乃がそのときのことを思い出して眠れないんだとしたら、きっとすごくつらいと思う。柚乃がつらい思いをしてるのはあたしも嫌だった。ルームメイトとして、なにか柚乃の力になってあげられることがあるなら、したいって思う。
柚乃は今日も眠れないみたいで、電気を消してからしばらくベッドでじっとしていたけど、やがてそっと二段ベッドから降りた。そして、あたしを起こさないようにしてくれてるのか、足音を立てずに部屋を出ていった。
少し迷ってから、あたしも部屋を出た。月明かりに照らされた薄暗い寮の廊下は、物音一つしなかった。明日も学校だから、たいていの子はもう寝ちゃってる。この寮の中で起きてるのなんか、柚乃とあたしくらいかもしれない。
寮の廊下の端っこに、光が漏れる場所がある。あたしがドアを開けると、柚乃は案の定そこにいて、びくっと肩を震わせて振り向いた。
「な、凪沙ちゃん……。びっくりした」
柚乃は驚いたことを恥ずかしがるみたいにはにかんだ。そんな柚乃に、あたしもちょっと笑ってしまう。
「起こしちゃった? ごめんね」
「ううん、大丈夫。起きてただけ」
あたしは首を横に振った。柚乃は安心したような表情になる。
「凪沙ちゃんも飲む? ホットミルク」
談話室には、冷蔵庫とかポットとかレンジとかが置いてあって、寮生のくつろぎスペースになっている。さっきから電子レンジでチンしてたのはそれらしい。
「じゃあ飲む」
あたしが言うと、柚乃はマグカップをもう一つ出してきて、牛乳を注ぐ。電子レンジのマグと入れ替えて、温めていた方をあたしに渡した。
「はい」
「ありがと」
薄桃色の水玉模様がついた柚乃のマグカップを手で包むと、ほんのり温かさを感じる。あたしはマグをテーブルに置いて、椅子に腰を下ろした。柚乃はもう一つのマグを温め終えてから、それを持ってあたしの向かいの椅子に座った。
マグを口につけると、ぬるいミルクが唇に触れる。柚乃は何も言わずに、子猫みたいにホットミルクをちびちび舐めていた。
「……どうかしたの」
あたしが尋ねると、柚乃はいたずらがばれた子供みたいに目をそらしながら言った。
「な、なんのこと?」
柚乃はあたしにもクラスのみんなにもやさしいけど、ちょっといじっぱりなところがある。だから、あたしがこんなふうに聞いても素直に答えてなんかくれない。
「眠れないんでしょ。最近ずっとそうじゃん」
「……、」
柚乃はそのことを認めたくないみたいに、少し黙った。あたしは柚乃を責めてるみたいで、ちょっとかわいそうな気持ちになる。でも、あたしはその気持ちを抑え込んで、柚乃を見つめた。
「……ちょっとね」
柚乃はあたしから目をそらして、マグカップの模様を眺めながら、それをそっと指でなぞった。柚乃はあたしに何かを伝えようとして、ためらってるみたいだった。そして、口を開きかけて──でも、声を奪われた人魚みたいにつぐんでしまう。
やっぱり、あのこと、なのかな……。
もしそうなら、それを無理して柚乃から聞き出したいとは思えなかった。あたしは重くなりそうな空気を吹き飛ばすようにくすっと笑って、なるべく軽い調子で柚乃に言った。
「じゃあ、あたしがいっしょに寝てあげよっか」
「へ?」
柚乃はほんとに意表を突かれたみたいに、顔を上げてあたしを見てくる。
「あたしが柚乃のとなりで寝てあげる。そしたら眠れるかもしれないでしょ?」
「べ、べつにそんなことしなくていいよ。一人で寝れるもん」
「ふーん。でも眠れてないじゃん」
「うぐ……」
あたしがそう言うと、柚乃はアニメのキャラクターみたいな声を出した。あたしは柚乃に反論させないように、言葉を続ける。
「いいじゃん、せっかくいっしょの部屋に住んでるんだから。たまにはいっしょのベッドで寝ても」
「……、」
柚乃はつっと目をそらす。心が揺らいでるのを感じる。柚乃は押しに弱いから、勢いで押し切れば、こういうのはうまくいく。あと一押し、と思って、あたしは柚乃を上目づかいで見つめて言った。
「それとも、あたしといっしょに寝るの、いや?」
「……っ、べつにいやじゃないけど」
柚乃の言葉に、あたしはふふっと笑う。
「じゃあ決まりね」
「……」
あたしがそう言うと、柚乃はしぶしぶ、みたいな感じでうなづいた。
***
二人でマグカップを洗って、部屋に戻る。柚乃が二段ベッドの上に入っていったから、あたしは枕を自分のベッドから取って、はしごを上った。
柚乃は自分のピンクの枕を少しどけて、あたしのための場所を作ってくれる。あたしはそこに自分のスカイブルーの枕を置いて、横になった。柚乃のベッドは、同じ部屋だってことがわからなくなるくらい、ピオニーの甘い香りでいっぱいだった。
「消すよ」
柚乃がそう言って、部屋の明かりを切る。柚乃がベッドに寝転んでこっちを向くと、向かい合うような形になって、柚乃と目があった。
あたしがふふ、と笑うと、柚乃は不思議そうな顔をして聞いてくる。
「な、なに?」
「なんでもない」
柚乃とこんなに近くで見つめ合うのは、初めてな気がする。話すとおたがいの吐息が鼻先に触れて、ちょっとくすぐったかった。
「近いね。間違ってちゅーしちゃいそう」
「……っ」
あたしが言うと、柚乃はほんとにびっくりしたみたいに、少し息を乱す。柚乃はこういう冗談もすぐ本気にして、いい反応をしてくれる。そういうところがかわいくて、いじりたくなってしまう。
「そ、そんなことしないから。……おやすみ、凪沙ちゃん」
柚乃は見つめ合うのに耐えられなくなったように、寝返りを打って壁の方を向いた。あたしは柚乃の寝顔が見られなくなって、ちょっと残念な気持ちになる。
「おやすみ、柚乃」
あたしはそう言って、柚乃のほうを向いたまま、暗闇の中でぼーっとする。
でも……これじゃ、ただいっしょのベッドで寝てるだけで、あんまり意味がない。あたしは、柚乃が安心して眠れるように、こういう提案をしたんだから……せっかくいっしょに寝るんだったら、もっと柚乃の心がほぐれるようなことをしないと。
あたしは背を向けてる柚乃にからだを近づけて、そっと手を回す。腕が柚乃のからだに触れたとき、一瞬だけ柚乃はからだを固くしたけど、あたしの腕をどけようとはしなかった。嫌がられたらすぐにやめようって思ってたから、あたしはちょっと安心する。あたしはよく柚乃のことをからかうけど、柚乃が嫌がるようなことをしたいわけじゃない。柚乃はひとりきりのルームメイトで、大切な親友だから。
あたしはそのまま柚乃を後ろから抱きしめるような姿勢になる。柚乃の背中があたしの胸に軽く触れていた。
「……暑くない?」
嫌ならそう言って、という意味を込めて、あたしは柚乃の耳元で尋ねた。
「……うん。大丈夫」
でも、柚乃はあたしを拒絶するようなことは言わなくて……それどころか、柚乃はあたしの腕を少し自分の方に引っ張った。もっとってこと……?
あたしが柚乃の背中にからだをぴったり沿わせると、柚乃は満足げに息をつく。そして、あたしにからだを預けるみたいに力を抜いた。
こんなにくっついてると、柚乃の心臓の鼓動や脈まで伝わってくるような気がする。あたたかくて柔らかい柚乃のからだは、すごく抱き心地が良くて……柚乃を安心させるつもりだったのに、なんだかあたしまでうとうとしてしまいそうになる。
「……起きてる?」
「……うん。起きてるよ」
柚乃が眠そうな声でそう聞いてくる。よかった、柚乃も眠くなってるみたい。
柚乃は何かを考えるように少しだけ黙ってから、あたしに言った。
「……ありがと」
「……っ」
その言葉を聞いて、あたしは柚乃がとてつもなく愛おしくなる。柚乃のこと、ぎゅうっと抱きしめたい……。あたしはそう思ったけど、でもきっとそんなことしたら、変に思われちゃう……。
あたしはほんの少し、柚乃を抱きしめる腕の力を強くする。柚乃はそれに応えるように、あたしにからだをすり寄せた。